日本型食生活の福場先生と上田さんの本(120)

2024年12月17日

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梅雨が明けて、急に真夏になった。連日30℃超える日が続いている。

御茶ノ水の聖橋から下を流れる神田川を眺めると結構切り立っていて、川面ははるか下にある。その片方の土手は急な勾配の途中にちょっとした林があって、その辺りからセミの鳴き声がしきりにする。

「うひゃー。元気なもんだねェ」と葛西博士。湯島の食品研究社の会議に出た帰りだ。

「それにしても、良かったねェ」

私を慰めているつもりだろう。理由は上田寛平の本の件だ。渡辺先生がとりなしてくれて丸く収まったのだ。

それを知ったのは先週だった。御茶ノ水の山之上ホテルで渡辺先生に会った。渡辺先生が紹介したい人がいるということで、昼食をとることになった。社用だから、会社持ちだ。ならばということで、多少見栄を張った。山之上ホテルの天ぷら屋で、食通の小説家・池波正太郎が愛した天丼を食べることにした。ただし誰が来るのか分からない。編集長も私も先生に命じられるままやってきた。

席に着くと、「忘れないうちにいっておく」と前置きして、上田さんの本は長谷川さんのところが出すことになったと告げた。長谷川さんのところということは東洋医学舎だ。間を取り持ったのは協会の加藤さんだそうだ。収まるところに収まって、ホッとした。

「ところで、こちらが福場君だ」と改まって隣にいる初老のおじさんを紹介した。なんでもこれから健康食品の勉強をするそうで、「ひとつ、教えてやって」と先生が言う。するとそのおじさんは頭をペコリと下げた。名刺を差し出した。受け取って驚いた。御茶ノ水女子大学教授とある。東京大学農学部の後輩だそうだ。

白髪交じりの髪をバックに眼鏡をかけた、人の好さそうなおじさんだった。後で知ったが、年は先生より6年下の大正11年生まれの61歳だった。顔をどこかで見たような気がしたが、話しているうちに思い出した。NHKの番組で日本型食生活とかいう話をしていた。

「いやァ。どうしても出てくれというもんですから」

照れ臭そうだが、かなり嬉しそうでもある。それでしばらく日本型食生活の話になった。もちろん僕らは聞き役に回った。

話は第2次世界大戦の戦後にまでさかのぼる。日本はひどい食糧難に喘いでいた。占領軍総司令官のダグラス・マッカーサーは「米と魚と野菜の貧しい日本人の食卓を、パンと肉とミルクの豊かな食卓に変えるためにやってきた」といったそうだ。

給食はまさにその占領政策に利用された。学校給食にパンと脱脂粉乳が導入されて、食の欧米化がすすめられたのだ。

こうした欧米型の食生活を推進するために1952年(昭和27年)栄養改善法(健康増進法)が定められた。米が次第に食卓から遠ざけられて、市場にダブつくようになった。この結果、1970年(昭和45年)には減反政策と米の買い入れ制限が始まる。

家庭の食事は西洋料理や中華料理などバラエティに富むようになったが、その一方で揚げ物や炒め物、肉食化、さらには加工食品が増えて行く。

「そこにマクガバンレポートが出たんです」

1977年のことでである。これは衝撃的な出来事だったようだ。レポートでは欧米式の誤った食生活が、がん、心臓病、脳血管疾患などの現代病を引き起こした原因だとされた。これを克服するには肉・乳製品・卵といった動物性食品を減らすこと、精白していない穀物や野菜、果物を多く摂ることが必要だとした。

さらに理想的な食事は日本食だとしたため、欧米で日本食ブームが起こった。米国の占領政策以降、日本が戦後推し進めた栄養政策が誤りだったと、言い出しっぺの米国から突き付けられたようなものだ。

そこで栄養政策の方向を転換するために、1980年(昭和55年)に農林水産省は農政審議会の報告書で日本型食生活に触れ、米を主食とする伝統的な食習慣が影響を与えたことを指摘した。さらに26人の医学、栄養学などの専門家を集めて、食生活懇談会が設けられ、1983年に日本型食生活を提唱する提言をまとめた。この委員の1人だったのが福場先生だった。これでテレビに出ていたのは合点がいった。


(ヘルスライフビジネス2019年4月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第121回は12月24日(火)更新予定(毎週火曜日更新)

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