加藤さんはキリストの末裔?を自任していた(92)

2024年6月4日

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大したこともなく夏は終わり、あっとという間に10月になった。めっきり秋らしくなって、夕方になるとカラスの鳴き声も物悲しく聞こえる季節だ。

そんな頃、新宿で全日本自然食品協会の事務局次長の加藤嘉昭さんに会うことになった。少し前から加藤さんに伝承医療の健康法の歴史についての連載をお願いしていた。

その原稿の締め切りが近づいていた。それで原稿をもらわねばならないと理由を作って早めに事務所を出た。夕方に会うとなればお酒である。

だいたい「飲みませんか」というと、「いいねえ」という返事が返って来る。よほどのことがない限り加藤さんは断わらない。付き合いが良いというのではない。ただ酒にだらしないだけだ。こちらも似たようなものなので、人のことは言えない。

その頃、私は西武新宿線の久米川という駅の近くに住んでいた。一方、加藤さんは中央線の中野なので、二人にとって落ち合うには新宿がちょうどよかった。飲むのは駅の南口にあった「五十鈴」というおでん屋に決めた。

再開発される前の新宿南口だ。当時はまだ国鉄(現JR)だったが、この線路をまたぐ形で、甲州街道が新宿御苑方面から西新宿へ伸びている。ちょうどその陸橋の上に新宿駅の南口の改札があった。

そこから東南方向に向かって右側の先に場外馬券売り場があり、左側に御大典記念塔が小さい広場に立っていた。昭和天皇が即位した記念だそうだが今はない。

その脇の階段を下って、東口に向かう道は戦後の面影を残す飲み屋街だった。その辺りの飲み屋はテレビをつけているところが多く、土日の競馬中継の時間には飲みながら馬券片手にレースを観戦する人でにぎわっていた。要するにあまり柄の良い所ではないが、私たちにはなんだかしっくりくる界隈だった。

「それにしても、なんでおでん屋なの」と店の椅子に座ると、加藤さんは言い出した。確かにちょっと早い気はするが、この店は夏だってやっている。「だって冷たいものは身体に毒でしょう」と、東洋医学で切り返した。連載の中医学の中でそう書いていた。加藤さんは「それはそうだけど…」と言って、不承不承ながらビールを注文しようとしたが、「それじゃあ」と言って熱燗に切り替えた。

この人は福島大学の経済学部を卒業していた。普通でであればサラリーマンにでもなっていただろうが、60年安保の時代だ。大学では学生運動が華やかだった。それに影響され、革命家になることにした。運動中に知り合った奥さんと、アナーキストの大杉栄とその内縁の妻となった伊藤野枝を気取っていたらしい。しかし女性は現実的である。社会に出ると銀行勤めを始めた。加藤さんと言えば、アルバイトのお金を貯めて、一年ほど東欧を彷徨った。そこでお酒の味も覚えて、酒飲みになった。

帰国後どうしたことか、革命家はデザイナーに変身して、健康食品の問屋さんに雇われた。なぜデザイナーなのか訳が分からないが、その問屋さんで会報を作っていたようだ。しかし運命ほど数奇なものはない。その問屋さんが協会団体を作ることになった。それでその事務局長になった。私が新聞社に入社間もない頃、加藤さんに会ったのは新橋のその事務局だった。

顔がどうも西洋的な彫りの深い顔立ちしているので、顔に蓄えた髭は確かに革命家のようでもあった。ただし本人は青森出身で、キリストの末裔を自任していていた。確かに青森県には戸来村というところがあって、イエスキリストの墓があるそうだ。嘘か本当かは分からないが、村の名称はヘブライがもとで、十字架に掛かったのはイエスではなく弟のイスキリだというおまけもついている。

何はともあれこの加藤さんは伝承医学以外にも、職業柄か薬事法にも詳しい。それで以前葛西博士から聞いた話を持ち出してみた。

すると「そうなんだよ」といって「食品は除く」という薬事法の薬の定義について話し始めた。

(ヘルスライフビジネス2018年2月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第93回は6月11日(火)更新予定(毎週火曜日更新)