つかれず判決で取り締まりがきつくなる(99)

2024年7月23日

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「今までより、46通知で厳しく取り締まって来るなァ」と上田先生。薬事法の所管は厚生省(現厚労省)の薬務局が握っていた。取り締まりは警察だが、行政指導は都道府県には窓口があり、各地の保健所が動いていた。つかれず裁判の最高裁の判決で、取り締まる方は自信を得た。取り締まりが厳しくなるのは容易に想像が付く。しかしこの頃、上田先生以外に、本当にそうなるとは誰も思っていなかった。

社長の園田さんは健康食品の新聞のことは任せっきりだ。それでこんな話題にはほとんど興味がない。それより昼でお腹が減っていた。「そろそろお食事でも」と言い出した。時計を見ると、すでに午後1時を回っていた。

「確かに腹が減ったな」という上田先生の言葉に、「なんか、軽いものが良いねェ」ということになった。なんたって皆60代のご老体だ。「それじゃあ、藪そばに行きましょう」と園田さんが応じた。

「薮かァ。いいなア」と言いながら、編集長と葛西博士はそれぞれ取材があるとかで、早々に出かけた。ヒマなのは園田さんと私で、御供することになった。

ビルの外は秋の陽ざしが燦燦と降り注いでいた。「気持ちいいねェ」と渡辺先生。歩いて行こうという。「運動ですね」と上田先生。しかし園田さんは「タクシーでも」という。しかし本郷通りで待っていてもタクシーは来なかった。顧問に促され不承不承歩くことになった。

お茶の水は高台である。昔は神田山と呼ばれていた。遠く江戸の始まりの頃の話だが、2代将軍秀忠の頃にこの台地の真ん中に川を通した。水道橋方面からお茶の水、秋葉原、柳橋を通って隅田川に出る。神田川である。なんでもこの川の源流は遠く武蔵野の井之頭公園内の池のだそうで、これも三代将軍家光が命名したという。全長は25㎞だそうだが、お茶の水は最後の1、2㎞辺りのところになる。

神田川の開通で神田山は南側の駿河台と北側の本郷台に分かれた。そして2つの台地をお茶の水橋と聖橋がつないでいる。両方の橋の間の駿河台側にJRお茶の水駅がある。この頃はまだ国鉄だったが、線路はその神田川に沿って、中央線と総武線が走っている。神田川に架かる橋は下流に向かって、さらに昌平橋、万世橋と続いていく。中央線の終点が東京駅になるまでは、万世橋駅が終点だった。

明治45年(1912年)には赤レンガ造りの駅舎ができ、この辺りの須田町の交差点は路面電車も行き交い、東京で指折りの繁華街になったようだ。しかしその後、路線が東京駅まで伸びると次第に寂れ、関東大震災で駅が焼けてしまった。今では旧須田町交差点の賑わいを偲ぶものは、明治以降に出来た店がいくつか残っているくらいである。例えばあんこう鍋のいせ源、洋食の松栄亭、鳥すきのぼたん、甘味処竹むら、そして園田さんや顧問と行くことになった薮そばの本店である。

席に着くと、渡辺先生は園田さんの方を見て、「よかったわねェ」と言ってニコリとほほ笑んだ。運動が出来て良かったという意味だ。しかし園田さんはそれどころではない。額から流れる汗をハンカチでひたすら拭っている。上着を脱ぐと、ワイシャツが汗で肌に張り付いている。

私も人のことは言えない。入社4年目となれば給料も少なからず上がって、それまで住んでいた4畳半のアパートから、駅前の1DKのマンションの5階に移った。お酒も毎晩飲むようになった。ただし月末になると、決まって懐具合は寂しくなる。こんな生活で財布がやせ細っても、私の身体は太る一方だ。ズボンがきつい。園田さんばだけでなく、私自身がファットマンになりかかっている。それで私も汗をかいた。

ハンカチで顔の汗を拭いながら、「私も運動不足ですねェ」というと、みんなどっと笑った。そこへそばが運ばれてきた。つるつるやりながら話になった。

「そういえば今年の野球はどちらに軍配が上がりますかねェ」と園田さん。23日から中日、西武の日本シリーズが始まろうとしていた。「それは西武だよ」と上田さんは当然のことのように言う。野球を話題にしたからといって、特に好きというわけでもない。理由はこの年監督に広岡達郎が就任したからだとピンときた。

(ヘルスライフビジネス2018年5月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第100回は7月30日(火)更新予定(毎週火曜日更新)