広岡効果で自然食品に追い風が拭く(100)

2024年7月30日

バックナンバーはこちら

「アアア ライオンズ ライオンズ ライオンズ ミラクル元年 奇跡を呼んで …」

結局、上田先生の予想が当たって、1982年の日本シリーズは西武ライオンズが中日ドラゴンズを4勝2敗で破り優勝した。それからというもの、駅でも西友の売り場でも、引っ切り無しにこの曲を聴くようになった。

数年前に「愛のメモリー」でヒットを飛ばした松崎しげるの歌である。4年前に西武が球団を買い取って、九州の福岡から埼玉の所沢に移って来た。その年からこの歌がライオンズの球団歌になった。

それにしても「ミラクル元年 奇跡を呼んで」と歌詞にあるように、優勝は奇跡に近かった。しかしわずか4年でそうなろうなどとは、作詞をした阿久友も思いもしなかったに違いない。

私の住まいは、東京の埼玉県境の東村山にあった。タレントの志村けんの出身地として知られる東京郊外の住宅地で、通勤には西武新宿線の久米川駅を使う。この沿線は西武グループの金城湯池である。西武球場も近い。ライオンズが来てわずか4年で、子供たちの被る帽子がジャイアンツからライオンズにすっかり変わった。優勝の翌日からは駅の構内でも、隣接するスーパーマーケットの西友でも、この曲が狂ったように流れた。さすがにこれは耳に付いた。

風が吹けば桶屋が儲かるという諺があるが、この西武ライオンズの優勝は私の業界に思いもしない追い風となった。自然食のちょっとしたブームが起きたのだ。

この年、西武ライオンズの監督に広岡達郎が就任した。監督のシーズン中の解任で、ヘッドコーチの広岡が急遽監督に昇格した。そして低迷するヤクルトをわずか2年で優勝に導いたのはほんの数年前のことだった。その監督時代から知られていたのが「管理野球」である。これはライオンズに来ても同じで、選手の身体の管理も徹底して行われた。禁酒、禁煙、禁麻雀で、その上、食生活の改善も選手に義務付た。肉食を制限して、玄米や自然食品を摂らせた。コーチや選手はもとより、奥さんたちにも呼び掛けて、講演会を行った。

後に広岡さんは書いている。自分がやろうとしたことは特別なことではないと。つまり血液を奇麗にすることで身体を健康にすることを進めていただけだという。しかしそのためには血液を弱アルカリにする食品を食べる。これが選手にはきつかった。

いわゆる食養生(マクロオビオティック)の世界で言われる身土不二、一物全体食などの食事が義務付けられた。その土地で摂れたものを、丸ごと全体で食べる。お米で丸ごとは玄米である。旬の食材であれば加工食品は使わず、添加物も摂らない。お茶の水クリニックの森下敬一博士の指導を受けたらしい。

選手には不評だった食養は、健康のために良かったことは間違いない。効果もあったのだろう。とにかく西武ライオンズは優勝したのだ。当然のことながら広岡の「管理野球」が注目され、自然食品にも関心が集まった。

さて季節は初冬の11月の終わりである。創健社の中村隆夫社長に会に行くことになった。中村さんは1年前に発足した全日本健康自然食品協会の理事長をしていた。この団体には健康食品以外に自然食品の企業も含まれていた。恒例の新年号用のインタビューを依頼すると、協会の事務局のある都内の市ヶ谷だったらよかったが、創健社まで行ってくれという。

「まいったなア」と思ったが仕方がない。というのも創健社の社屋は横浜の片倉町にある。今では横浜市営地下鉄の片倉町で降りて、10分ほどで着くのだが、その当時地下鉄はまだなく、横浜駅の西口からバスだった。つまり交通の便が良くなかったのだ。

約束の日の受付で来社を告げると、広報担当の辻さんが出てきた。社長室に向かいながら、「広岡効果はどうですか」と声をかけると、目をパチパチさせながら「結構反響あるよ」というとニコリとした。席に座ると、中村さんが遅れて社長室に入って来た。

開口一番、「そうなんだよ」と上機嫌だ。廊下で聞いたに違いない。べに花油が売れていることに加えて、広岡効果で自然食品がテレビで取り上げられて、今まで関心のなかった人まで、自然食に興味を持ってお店に買いに来るという。

インタビューを終えて帰り際に、中村さんが思いもしなかったことを言い出した。事務局次長の加藤君が困ったことを言い出したという。

「協会を止めて、ジャーナリストになるというんだ」

(ヘルスライフビジネス2018年6月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第101回は8月6日(火)更新予定(毎週火曜日更新)

関連記事