豆乳ブームは豆乳研究会から始まった⁉(104)
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透明のグラスの中に乳白色の液体が入っている。
「飲んでみなよ」と岩澤君に言うと、あまり気乗りしない顔をしている。乳白色の液体がミルクなら別に嫌がりもせずに飲むだろうが、中身が違った。大豆を絞った豆乳だ。その頃はまだ飲んだことがない人が多かった。
「牛乳だと思うからいけないんだ」といって、葛西博士が手を伸ばして、グラスの中身を一気に飲み干した。この人は何でも口に入れる癖がある。スポンサーの商品はたいがいほめる。しかしこのときは違った。
「美味しいかと言えばそうでもないが、不味いものでもない」と歯切れが悪い。私も飲んでみたが、決して美味いものではなかった。ただしこの頃、健康ブームに乗ってファンを増やし始めていた。
記憶する限り「豆乳」の飲料を最も早く発売したのは紀文フードケミファだったと思う。おでん種の紀文の子会社だった。昭和53年から販売しているそうだが、ここに来てようやく日が当たてきた。折からの健康ブームに乗って、売れ始めていたのだ。他にも、三菱化成やマルサンなどがこれに続いて、ちょっとした豆乳ブームなった。
他にも何社か製品を出していたが、スーパーマーケットの定番は「紀文」と大きく書かれた豆乳だった。築地近くの事務所を葛西博士と何度か訪ねた記憶がある。大概は豆乳の特集記事の取材で社長に会って、広告も貰った。帰りには築地の場外で昼めしを食べた。もちろん魚の定食だが、給料が出たばかりには寿司のランチも楽しみだった。
「そういえば大豆の研究会やってましたね」と園田さんにいうとニッコリして、「そうなんだよ」と自慢話を始めた。我々新聞の編集部の親会社に当たるのが食品研究社という出版社だった。食品の技術誌や本を出していた。その社長が園田さんだったが、我々がいる新聞の方も園田さんが社長だった。みなし法人というのだろうが実は個人会社で、両方の財布は一緒だった。これが後に騒動につながるが、このときはまだ園田さんが好きなようにやっていた。
この食品研究社でやっているいくつかの研究は園田さんが担当で、2つの食品の月刊誌「食品」、「食品開発」は岡山さんという50代の編集長が仕切っていた。この人は痩せぎすのインテリっぽい人で、園田さんとは真逆のタイプだった。
この園田さんの優れたところは、先見の明があることだった。高度成長期に加工食品が増えた。その時期に食品添加物の専門紙の幹部をしていた。その間にスーパーマーケットが増えて、漬け物の需要も増えた。独立して食品添加物の売り先の一つの漬物の専門誌を出した。スーパーマーケットが次々に出来て、漬物の販売量は飛躍的に伸びて、一時は結構な羽振りだったようだ。さらに飽食の時代とともにクロレラから健康食品に入り新聞社を立ち上げ、さらに漬物雑誌でキムチのブームの火付け役となった。晩年にも海洋深層水などもいち早く目を付けていた。
ところがこの人は新しいものを見つける才はあったが、それが当たった頃にはもう違うものに関心が移っている。それで成果を刈り取ったことがほとんどない。つまり儲かったことがないわけだ。
その園田さんはこの頃、大豆の団体を立ち上げて活動していた。大豆研究会といった名称だったが、豆乳はこの研究会から始まったいっても過言でないと豪語した。しかし、その頃には大豆研究会は開店休業で、その後、奥さんと焼き鳥屋をやるといて会社を止めた岡山編集長が、この年発足した日本豆乳協会の事務局長に納まり、多少いい思いをした程度の効用しかもたらさなかった。
3月になって、食品研究社に新卒の社員が入って来たという噂を聞いた。事務所が離れているので交流がないが、たまたま湯島の事務所に立ち寄った葛西博士が遭遇した。眼鏡をかけた女の子がいたので、「多分その子だよ」という。
(ヘルスライフビジネス2018年8月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)