【解説】プレシジョン栄養学の可能性を探る(前)
栄養学は〝全体〟から〝個〟の時代へ
「各個人の健康状態や遺伝子などを分析して最適な栄養を提案する」という「プレシジョン栄養学」が世界的に注目を集め始めている。米国ではNIH(米国立衛生研究所)が昨年から大規模臨床試験を開始したほか、わが国でも医薬基盤・健康・栄養研究所と大学・企業など15機関による産学官連携でのプレシジョン栄養学の社会実装に向けた取り組みがスタート。遺伝子や細菌叢などを解析するシステム、生活習慣や健康状態をモニタリングする端末、個人にとって最適な食事や栄養を提案するアプリなどさまざまな業種が連携し、エビデンス創出や製品開発が進められている。今回は夏季特別解説として、プレシジョン栄養学の研究動向や健康食品業界における可能性を探ってみる。
米国NIH「プレシジョン栄養の推進」を宣言
「プレシジョン栄養学」とは「各個人のその時の状態において、最適な栄養を提案し実行すること」を指し、「テーラーメイド栄養」「オーダーメイド栄養」「パーソナライズド栄養」などと同義で扱われることもある。
公式な定義は存在しないものの、女子栄養大学教授の加藤久典氏は「年齢、ライフステージ、性別、ゲノム、エピゲノム、腸内細菌、睡眠(休息)、運動や活動度、体格や体組成、血液などにおけるバイオマーカー、病歴、ストレスや精神状態、食事履歴、嗜好、季節や時刻を含むさまざまな因子を統合して導き出される栄養であり、各個人のその時の状態において最適な栄養を提案し実行すること」だとしている。
現在の栄養学は、大量の研究論文から個人に必要な栄養摂取量の平均値を導き出した「集団対応型」であり、これに基づいて食事摂取基準が策定され、栄養指導に活用されてきた。
しかしながら、「栄養不足の解消」を主眼とした集団対応型の栄養学ではがんや認知症、生活習慣病などの健康課題をなかなか克服できない現状があり、「個」に着目した栄養学が注目されるようになったという。
「プレシジョン栄養学」という概念が生まれたのは、2015年に米国のバラク・オバマ大統領(当時)が「個人の状態に合った最適な医療」を意味する「プレシジョンメディスン」を提唱したことが契機になったと言われている。
栄養学の世界では新しい概念であるものの、2020年に米国NIH(国立衛生研究所)が発表した栄養研究に関する今後10年間のストラテジックプランにおいて「プレシジョン栄養の推進」を宣言。2023年には早くも1万人規模のコホート研究が開始された。
本研究では、さまざまなバックグラウンドを持つ18才以上の個人を対象とし、毎日の食事内容の記録や血液・尿・便を用いたマイクロバイオーム(細菌叢)の分析、決められた試験食を摂取させた際の身体の生物学的変化などを記録し、最終的には人工知能(AI)を用いて食事の内容が個人の健康状態に与える影響を予測するアルゴリズムの開発を目指すとしている。
国内でも社会実装へのプロジェクトが始動
プレシジョン栄養学の社会実装に向けた試みは、米国のみならず我が国でも行われている。
今年2月には、国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所を代表機関に九州大学、京都大学、早稲田大学、東京農業大学などの学術機関や島津製作所、森永乳業、Noster、ヘルスケアシステムズなどの民間企業を合わせた15機関によるプロジェクト「プレシジョンニュートリションの実装プラットフォームの構築と社会実装」が令和7年度までの計画でスタート。
医薬基盤・健康・栄養研究所では2015年から健常人を対象とした生活環境と腸内細菌に関する研究に取り組んでおり、これまでに日本各地に住んでいる人の生活習慣や健康診断、既往歴などの情報、唾液・血液・便のサンプルをすでに1万2000人分取得。これらのデータをもとに、健康増進に関わる有用菌や有用代謝物の同定、それらを培養・生産する技術開発、さらにAIを用いた「食の効果予測システム」の開発を進めてきた。
本プロジェクトではこうした研究や技術を基盤とし、技術の高度化・最適化を行う大学や社会実装を担当する民間企業と連携し、事業展開することで、個人の特性に応じた食の提案・提供を可能とする社会実装を進めていくとしている。
具体的な取り組みとしては①消費者が自身の健康状態や食事内容、腸内環境などを確認できるポータルサイトの構築、②食の効果を予測・診断するためのシステム開発、③食の効果を最大化するための個人ごとに適した食品やレシピ開発、の3点を挙げ、「人々がより効率的に食で健康効果を得る『次世代の栄養摂取』ができる社会」の実現を目指す。
医薬基盤・健康・栄養研究所・副所長の國澤純氏は本紙の取材に対し、「3年という短い期間の事業なので、プレシジョン栄養学の有用性と可能性を示すために実現性の高い社会実装を優先的に取組み、できる限り成功事例を増やしながら研究を拡張していきたい」と展望している。
≪後編に続く≫
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