辞書には持つべきものは友とある(119)
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三越の外に出た。路上は相変わらず混み合っている。横断歩道を和光の方に渡り始めた。和光の隣はあんぱんで有名な木村屋総本店である。そのちょうど前あたりの路肩にグレーの色の高級車が止まっていた。もしかして…と思って中を覗いた。やはり彼だった。以前からよくここに車を止めていると言っていた。
彼は私の友達である。以降ここで何度か会うことになる。彼は秋葉原にあったベビー用品の会社の社長の息子で、塚原清介といった。まるで江戸時代の大店若旦那みたいな名前だが、長男だけに会社の後を継ぐはずだった。ところが高校時代は引き籠りの不登校で、大学も検定試験を受けて行ったという。初めて会ったときは下北沢で開かれた知り合いの詩の朗読会の会場だった。
寺山修司の弟子の作った集まりで、彼らは朗読詩の運動のようなことをしていた。そこには奇々怪々な人物が集まっていたが、その中でも彼は異才を放っていた。画家の藤田嗣治ばりのお河童頭に、黒縁の丸い特注の眼鏡、サスペンダーで吊った黒いズボンに白いシャツ、なんとも目を引くスタイルだった。そして朗読に合わせてキーボードを弾いている。聞くと、ポルノ映画の助監督をしていたとのことだった。聞いた私は業界紙の記者で、教えてくれた友人もアダルト漫画の編集長をしていたから、どちらも怪しげだった。
彼の親からすると遊び暮らしている道楽息子ということになるようで、会社の跡目は弟が継ぐことになった。
本人は気が楽になったようだが、遊び暮らす20代も後半の息子に、お小遣いをくれる親などいるわけはない。収入がないので、いつもお金がない。安月給で働いてもお金のない私と同じだ。ただし困ると、おばあちゃんを頼る。彼の唯一のパトロンだった。
とにかく出会って以来、飲み会などでちょくちょく会うことが多くなった。話してみると、わりと感じの好い男で、2つほど年下だったが気が合った。彼は当時、パソコンを持っていて、自分の詩の文字をパソコンで絵のようにしていた。あるとき会うと「入選したんだ」と嬉しそうにいう。何に入選したのかというと、ブラジルのサンパウロで行われるビエンナーレだという。ビエンナーレは国際的に知られた美術展だった。
おばあちゃんは喜んだそうだが、お父さんは全く関心がない。それでブラジルに行く旅費は出してくれなかった。
芸術家の彼の日常生活はつまらないようだ。やることがない。ただし引き籠りがちだから、ほとんどお金もかからない。気分転換に親の高級車に乗ってドライブする。そのついでに4丁目の交差点の木村屋の路肩に止めて、ボーと行き交う人を眺めている。芸術家とは退屈なものだ。
ドアを叩くと、手招きをする。中に入れということらしい。助手席に座ると、「どこへ行くんですか」と聞く。会社に帰るところだというと、送るという。車が発信すると、「お酒好きですよね」と聞く。うなずくと、「タダで飲めるところがあるんです」と言い出した。そんな都合の良いところがあるのかと聞くと、「あるんです」と説明し始めた。
彼によると、銀座の月曜日はタダ酒が飲めるのだという。画廊ではたいがい絵や彫刻、工芸などの個展やグループ展を開いている。貸し画廊はたいがい月曜日がオープニングで、この日にたいがいパーティがある。そこを狙うんだという。しかし勝手に紛れ込んだらつまみ出されるのが落ちだというと、そうでないじゃないそうだ。
「僕は銀座の画廊では結構顔なんですよ」という。毎月何人か知っている人やその知り合いが展示をしている。そこに行けばタダで酒が飲める。女の子もいる。ただし「生意気なやつが多いけど」と付け加えた。成る程、それはよい提案だということになった。このタダ酒の行脚の中で妻を見つけたのだから、彼には感謝している。
Friends are what you need. It’s very important to have friends.辞書には「持つべきものは友」とある。
(ヘルスライフビジネス2019年1月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)